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海明寺が倒れたとき収入の9割はマンガ以外の仕事で(警備員)得ていました。
手元に2000年末発行の私の同人誌があるんですが「12月に98ページ仕上げた」とあっていまさらながらびっくりしました。(あ、もちろんもっと描いてらっしゃる方は山ほどいるのは承知ですが、せんせいは基本月間1本くらいの感じだったもので)
コミックフラミンゴの読者の方はご存知だと思いますが特殊な世界のエロチシズムを描きたい人だったので依頼を受けて実録事件をマンガにするとかテーマに沿ったキャラクターをマンガにするとかは得意ではなかったんだよな、と手伝い当初から思っていて特に編集側から「本番必須」をいわれたりするとかまり困っていたような記憶があります。
長らくプロ活動をしているのでそれなりのそれ相応のマンガは描いていたんですがその手の仕事が(出版社倒産によって)なくなったとき、ちょっとほっとしていたような気がします。燃え尽きちゃった感じがしていました。
部屋を掃除していると2000年代に出した同人誌が出てきました(結構忘れていました)CD-ROMやイラスト絵本や。その中に何度も「これからは好きなものだけ描いていきたい」と描いてあって、痛めつけられちゃったんだなあと(私のせいかもしれませんが)思います。
FANディングが始まる前「海明寺は今マンガを描いているのか」という質問をいくつか目にして
赤松健先生は「かつて書いていた作品に対するFANディングなので今は関係ない」(大意。違っているかもしれませんが)とおっしゃっていましたがやっぱり自分が助けた、助けようとした人間が「今漫画家」なのか「今警備員」なのかは気になるだろうなと思います。
ただの警備員なんか助けてもいいことないもんねー。
倒れてからの海明寺は病院では漫画家であるとはなし、(妻はアシスタントです、といっていたようです)漫画家として扱われています。半身不随ですから警備の仕事はもちろんクビです。
細くて体力のない彼の独自の記憶力と努力でかなり優秀な警備員(だったそうです。隊長から伺いました)として活動することはできなくなってしまいました。
眼の不自由さと知力の曖昧さとで創作はなかなかきついようですが今になって「自分は漫画家」といってくれるのは私にとってはうれしいことです。
今日は脚用の装具ができてきたようです。これでずいぶん足に力が入るんだとか。明日見るのを楽しみにしています。